アンプラグドの優位性



従来の広告形態は背凭れ型であった。
リビングで寛いでいる間に意識する・しないにかかわらず流れていく広告。気になるものがあったときにだけ注意を向ける。テレビを点けている=観ているという前提で成り立っていたものだが、実際にはその通りでないことは周知の事実。
しかしネットは違う、というのがgoogleの意見。
ユーザーは能動的にPCに向かう。なんらかの求めるものを、検索という行動を通じて掴もうとする。そのとき用いられるキーワードがユーザーの行動の指標となっているので、検索結果と同じようにユーザーの意図に即した広告を提示することができるし、ユーザーも親和性の高いものとして広告を認識(=クリック)する可能性が高くなる。
それが前のめり型である。
効果の有るや無しやも判然としないまま漫然と行うのではなく、確実に伝達できる方式であるというのだ。


ささやき声の伝達力、というのはこの前のめり型に近しい。


街中には音が満ちている。
呼びこみの声、雑踏、BGM。
食事のときすら、何らかの音(それは良い音楽、と言われるものかもしれないが)に晒されている。そんな中で平然と過ごせるのは取捨選択を行われているから。


大きな音を流すことが人の意識に残すこととはならない。大きな音が流れている中に大きな音を出すことは森に木を隠すようなものである。その中の小さな声に気付いた人は、その音の小ささ故にしっかりと能動的に聴き取ろうとしてくれる。フックとなるのは、聞き覚えのある音や懐かしい音。雑踏の中でも風鈴売りの音は吃驚するほど良く通る。


だから、機材を使わずとも歌声が埋もれることは無いのではないか?


そして、彼ら・・・INSPiには日本人の認知率がほぼ100%であろうという『この木なんの木』を歌っているという強みがある。自主的にやっているものではなくオフィシャルに、つまりテレビで流れているあの映像とリンクして人々の意識に残っているあの曲。例え小さな音であっても、脳内で補完することで意識を向けることができるのではないか。

とまあ、なぜストリートにおいて機材を使わないほうが良いと思うのかということを理論的に説明したかったのだけど・・・思考の経過を残すのもまたblogの良いところだろう、と言い訳。